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2015年08月01日

在日デザイナーの作品は早く撤回せよ





 新国立競技場の問題もひと段落して5年後の大成功へ向けてひた走る東京オリンピックにまたしても問題が起きた。オリンピックのエンブレムがベルギーの劇場のエンブレムと酷似していたというのだ。確かに左上と右下の部分はそっくり。ただの偶然という声もあるが、これは盗作の可能性が高いのだ。なぜならばデザイナーに問題があるからだ。

 エンブレムを手掛けた佐野研二郎は「まったく知らなかった」と逃げ口上を発した。だが、この佐野は本名を朴尊簸とする在日なのだ。在日はパクリが民族的特徴だから当然今回のエンブレムも盗作でないとつじつまが合わないことになる。

 したがって最初に選ばれた朴のエンブレムは破棄して新しい作品を作るべきだろう。こうして世界的にスキャンダルになったというのもあるが、それ以上に在日のデザインを使用するということに愛国者たちは耐えられないのである。発狂して死んでしまう者もあらわれるだろう。

 朴の目的は当然東京オリンピックを失敗させるためであろう。その2年前に行われるオリンピックが大失敗に終わるからだ。そのために東京オリンピックを道連れにさせる魂胆なのだ。東京オリンピックは絶対に成功させなければならない。そのためにもテロ対策として在日の追放が絶対に重要だ。イスラム過激派など放っておいてもいいぐらい在日は危険なのだから。
posted by 愛国 at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
文献史学について一つの問題提起


  今、ここで無名の存在である私が云々するまでもないが、歴史を調べるとい
うことについては、あらゆる分野における学問知識や、それらの応用テクニッ
クなりが、適宜駆使されていくわけである。これが単に一つの史実の具体的な
探求となると、そのアプローチ手法は大きく分けて二つに絞られるようである。

即ち、その一つは「比較文献史学」、又、その一つは「考古学」である。こ
れらのうち「考古学」は門外漢なので置くとして、他の一つ「文献史学」につ
いて、ここに些かの問題を提起してみたい。

 今日、我が国で「文献史学」まがい?に名を借り、最も論争のかまびすしき
問題は「邪馬台国論争」をおいて他にないのではなかろうか…。

  論争は三百年を閲(けみ)し、研究され詮索され尽くされている筈にも拘わ
らず、何故に共通の観点に立っての見解が出ないのであろうか。それは『倭人
伝』に対比させるべき文献が、我が国に存在しないことに先ず起因している。

又、同時代成立の文献を最重要視するという一般的伝統的手法として、お隣
の朝鮮・韓国に文献を求めてみても、十世紀以前に遡っての文献は、両国にも
存在していない。それ故、必然的に、勢い中国の史書古典中に拠らざるを得な
いということになる。

 だが、中国の史書といっても、古く遡れば遡るほど、その叙述内容は断片的
であり、かつ前時代成立の記述を踏襲したもの、或いはそれに撰者自らの「主
観」が加えられたものが多く、あくまでも「実地踏査」の記録ではない。

 そもそも、文献史学では同時代成立期の文献資料を重視し、従って、研究家
達は挙(こぞ)って『倭人伝』を記載している中国の史書を突き合わせて、そ
の人なりの見解を展開させているが、この従来の手法は、最も危険な研究姿勢
となるのかもしれない。何故ならば、古いものほど、或いは古い記録ほど実地
踏査の結果をそのまま書いたものとは言い難い傾向が見られるからである。

  「邪馬台」或いは「倭」の問題を探索する上で、極めて重要視される問題が
あるが、その問題についての記録たるや、実に断片的であり、かつ粗雑なもの
でしかない。

  その一例は何かというと、ここでは周知の「楽浪郡」について問題提起をし
てみたい。この郡についての中国の古代王朝史中には、極めて断片的な記述し
か見られず、推定していく上で至極厄介な存在となってくる。故に先に同時代
成立の古文献重視は危険を孕(はら)むとした所以である。

 このことは、そのような古文献よりも、より新しい時代の実地踏査記録を拠
り所とした方が正しいのではないかと思われる。

 「邪馬台」或いは「倭」を語る上で、極めて重要となってくる「楽浪郡」に
ついて、十九世紀末から二十世紀初頭に撰された文献に『長白叢書』というも
のがある。この文献は清朝末期の学者・張鳳台氏によって撰され、『長白山崗
志略』と『長白征存録』の二編からなるものである。又、もう一書は、民国時
代の人で魏声和氏が撰した『吉林地志・鶏林舊聞録』という文献がある。

 これらの文献は皆「実地踏査記録」であり、かつ「満族」に拠って撰された
ことに重要性がある。その他に、清代の章学城という学者の文献なども存在す
るが、ここでは先の張鳳台氏の著書の記述と、魏和声氏の著書中から、「倭・
邪馬台」詮索に重要となる知識について若干紹介しておきたい。

 張鳳台氏は、我朶里(がだり)城(吉林省敦化市)が、我が「満清」の発祥
の地なり…と記し、その文献中に次の如く述べている。

   漢武帝元封三年滅朝鮮、分置楽浪・玄莵・臨屯・真番四郡、即在今奉省
   南蓋平・海城・復州等処。至昭帝始元五年、詔罷臨屯・真番・以併楽浪・
   玄莵。玄莵復徙居句麗。自單々大嶺以東・單々、満語珊延、音相近、即長
   白山。悉属楽浪、故楽浪地勢最為廣袤。旋復分嶺東七縣、置楽浪東部都尉。

以其時其地考之、自今之海・蓋以東至長白山一帯地方、均属楽浪郡。漢
   時楽浪在奉天省城東北二千餘里、府治距奉天不過一千五百里、其為漢時楽
   浪郡無疑。

    漢の武帝の元封三年、朝鮮を滅し分かちて楽浪・玄莵・臨屯・真番四郡
   を置く。即ち今の奉省南蓋平・海城・復州等処に在り。
    昭帝の始元五年に至り、詔(みことのり)し臨屯・真番を罷め楽浪・玄
莵に併す。玄莵また徙(うつ)りて句麗に属す。
單々(たんたん)大嶺より以東・單々は満語の珊延に音近し、即ち長白
山なり。悉く楽浪に属す。故に、楽浪の地勢最も広袤(こうぼう)たり。
旋(めぐ)りてまた、嶺東七県を分かち、楽浪東部都尉を置く。
    漢時の楽浪は、奉天省城の東北二千余里に在り。府治は奉天を距(へだ)
つこと千五百里に過ぎず。それ漢時の楽浪郡たること疑いなし。

  この一文の解釈は不必要であろう。要は漢代の「楽浪郡」とは、今日の遼寧
省復州・蓋県・海城市以東、長白山区一帯にかけて置かれていたということが
分かる筈である。

 なお、上記一文中の「嶺東」は、「單々」に同じで、『満州源流考』中でも
記しているが、これは現在の鴨緑江と豆満江の中間に横たわる「長白山脈」を
指す。

 このことから案じて、古の「楽浪郡」とは、遼寧省東部一帯から吉林省の豆
満江一帯に及んでいたことになる。旧来、我が国で学者や研究家達によって指
定されていた所とはかなり違うようだが、果たして如何か…。

 「楽浪郡」の位置付けがこのように指摘されてくると、それ以後の東アジア
史研究は、大部ずれ込んでくるが、いわゆる「邪馬台」詮索に明け暮れている
方々は、その研究を根本から見直す必要が出て来るであろう。

  さて、次ぎに、これも我が国の歴史家達によって、いとも簡単に考えられ構
築された説に、古代の中国王朝下に今の中国東北地方の地理が当然のこととし
て把握されていたとする誤った定説がある。この甚だしき誤謬に対して正しき
史実を記した文献記述があるので、それを次ぎに紹介しておきたい。「邪馬台
・倭奴国・倭」などに関する研究に大いなる疑問が出るはずである。

  民国二年成立、魏和声氏の著『鶏林旧聞録巻四』の中に次の如き記録が見ら
れる。

  「自来中国兵力能及今吉林省界、只両度。一在三国曹魏時。毋丘倹討高麗、
  絶沃沮千里。到粛慎南界、粛慎城在渤海国西三十里。元渤海上京城、古粛
慎也。按渤海大氏故郷、今寧安県東京古城是。其進師之道史不詳。…中略
必沿渾江城上游、以東北進者。毋丘倹剿敗軍遂至于此。
    一在明洪武二十年。馮勝攻元太尉納克楚于金山、金山・今孛々図山、在
  奉天省遼源界、東遼河…
    按、吾国帝王武功之盛、無逾漢・唐。顧于吉林一省、獨無軍事地理関係、
   即三国時毋丘倹・明初馮勝両役、亦倶以追討及此。…」

    自来、中国の兵力、よく今の吉林省の界に及ぶもの、ただ両度なり。一
は三国の曹魏の時、毋丘倹(かんきゅうけん)高麗を討ち、沃沮(よそ)
千里を絶ち粛慎の南界に到る。粛慎城は渤海国の西三十里に在り。もと渤
海の上京城は、古の粛慎なり。
渤海大氏(おおし)の故郷を按ずるに、今の寧安県東京の古城これなり。
その師の進む道は史に詳(つまびら)かならず。…中略…必ず渾江に沿い、
東北に進むものなり。毋丘追って軍を剿敗(そうはい)し、ついに此に至
る。
   一は明の洪武二十年、馮勝(ひょうしょう)、元(げん)の太尉(だい
い)納克楚(なくちゅ)を金山に攻む、金山、今の名は孛々(ぼつぼつ)
図山、奉天省遼源県の界に在り、東遼河…
按ずるに、吾国帝王武功の盛んなるは、漢・唐を逾(こ)えることなし。
吉林一省を顧みるに、ひとり軍事地理関係なし。即ち三国時の毋丘倹・明
初の馮勝の両役なり。また倶(とも)に追討の故を以て此に及ぶ。…

簡単に言うと、古来、中国の武力が吉林省の東界・今日の寧安県の東京城ま
で攻め込んだことは、三国時代の魏の毋丘倹の高句麗征伐と、明代に入ってか
らの馮勝将軍が元の残党を追って吉林省農安県の金山堡に攻め込んだ二つの事
件しかなかった。その理由は「軍事上の地理情勢が把握されていなかったから」
であるということ、この一語に尽きるのである。

 我が国の歴史家や研究者どころか、中国の歴史家・研究者でさえもが、山海
関以東に関しては、古代中国の軍事力やそれに伴う地理情勢について、如何に
その理解力が乏しかったかが分かる筈である。


 以上、漢帝時代の郡「楽浪」が、今日の韓半島方面に設置されていなかった
ということと、古代中国人が現在の中国東北地方の地理情勢について、実際は
余り良く分かっていなかったということの二点に関し、清朝末期・民国時代の
「実地踏査」記録に依拠して簡述してみた。

 以下の古代東アジア史上の「重大な誤謬」を是正する上で、大いに役立つと
思われるが如何か…。

 その誤謬とは、即ち、現在の朝鮮半島のほぼ全域が、古代の早期に中国の支
配下に置かれていて、政治・軍事・文化的な面から、韓半島の歴史は漢民族へ
の従属的位置関係にあったと解釈され、その誤った解釈が定説化し、そのまま
今日に至っているのである。  
Posted by 山形明郷 at 2015年08月01日 14:57
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