検索
 

2015年10月17日

ロシアからのいちゃもんには毅然と対応せよ





 ユネスコの記憶遺産にシベリア抑留についての資料が選ばれた。シベリア抑留とは偉大な大日本帝国の軍人を戦闘で捕虜にした挙句、多くの人間を死に至らしめた虐殺事件である。




 しかしこの登録にロシアが反発をしている。だが、シベリア抑留は歴史的事実。絶対に譲歩してはならない。毅然とした対処が必要だ。ところがロシアの反発に大喜びしている日本人がいることに驚きを禁じ得ない。しかも日本がバカにされることを喜んでいるのである。

わはは、なんて見事なブーメラン(笑)本当にこの国は大日本帝国の頃から国際政治がドヘタクソだよね。”

 しかもこれに賛同する輩も反日コメントを日ごろから行っているものばかり。やはりはてなブックマークは反日の巣窟であると改めて確信した。このブーメランというのは南京事件が記憶遺産に登録されたことを日本政府が抗議している件についてのことを指しているのだろう。だが、南京事件はねつ造であり、事実が確定しているシベリア抑留とは違う

 各種記録から南京事件はないことが判明しており、虐殺があったという証拠はすべてねつ造されたことも証明されている。そもそも松井石根自身が「虐殺はなかった」と断言しているのだ。



 この件で明らかになったことは国際社会は連合国が作った東京裁判史観によって汚染されているということだ。中国が国連の常任理事国になり、韓国人が国連のトップにいる時点ですでに明らかだが、中露は日本を陥れようとして連合を組んでいるのだ。日本は間違った史観に絶対に騙されてはいけない。日米同盟を基軸として国連脱退を真剣に検討すべきだ。
ラベル:ロシア 南京事件
posted by 愛国 at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

「広開土王陵墓」について


先般、平成十六年一月二十七日付の朝日新聞紙上に、「好太王の墓の手がか
り」と題し、中国吉林省集安市の「太王陵」から、「広開土王」の銘を刻んだ
青銅器の「鈴」が発見された旨の以下の記事が載った。


  高句麗・広開土王の墓の手がかり?
 銘刻んだ青銅器 論議呼ぶ

   朝鮮半島北部と中国東北部にまたがって栄えた古代王国、高句麗。4世
紀後半から5世紀にかけ。その勢力を拡大した好太王(広開土王)の銘を
刻んだ青銅器が、かつての都のひとつ中国・集安の太王陵付近で見つかっ
た。好太王は、当時の朝鮮半島と倭(日本)の緊張関係を記す広開土王碑
文で有名だが、墓の場所は確定していない。新資料は、太王陵がその墓で
あることを示すのか。さっそく反論も出され、論議を呼んでいる。
好太王は高句麗の黄金期を築いた。同じ集安に立つ広開土王碑は、倭と
戦った王の功績を顕彰したものだ。墓の場所については、碑の近くにある
太王陵古墳と将軍塚古墳の、大きく2説に分かれている。
新たに見つかった青銅器は鈴とみられ、太王陵古墳の前面から出土した
という。高さ5.6センチ。「好太王」のほかに、広開土王碑文中にある
「辛卯年」などの文字が彫られているという。このほど東京・有楽町で開
かれたシンポジウムで、昨年9月に現地を訪れた西谷正・九州大名誉教授
が明らかにした。
西谷さんは、碑と太王陵付近には土塁が巡り、五つの陪塚(ばいちょう、 
大形古墳の周辺にある、従臣や副葬品などを葬った墓)や様々な施設がま
とまる「陵園」をつくっているなどとして、「そこから出土したというこ
とは、太王陵説を補強する材料ではないか」と述べた。
   しかし、碑との立地関係から将軍塚説をとる東湖・徳島大教授は「出土
状況をみないと何とも言えない」と慎重な意見だ。「好太王」は美称であ
り、広開土王以前の王を指す可能性もあるという。また、長年、碑文の研
究を続けてきた李進煕(リジンヒ)・和光大名誉教授は「まずは実物の字
体を見たい」と語った。
いずれにしても、高句麗史研究にとって「極めて重要な資料」(大塚初
重・明治大名誉教授)だ。文献史料に乏しく「空白の世紀」とも言われる
4世紀の東アジア史の解明に役立てられることを期待したい。  
                             (中村俊介)


以上の記事で、前提事項となっている「倭=日本」という定説は、明らかに
誤謬・誤断・妄誕の最たるものであるが、ここでは「高句麗」について述べる
ので敢えて触れないで措く。

久しい以前から、「広開土王」の陵墓については、それぞれに異論あり、今
日では上記記事にもあるように大きく二つに分かれているようだ。

吉林省・集安=輯安(チーアン)=長安(チーアン)。鴨緑江の右岸に、広
開土王の事跡を刻した有名な「好太王碑」なるものが存在している。その刻文
の中心的人物が、高句麗第十九代・高談徳(コウ ダントク)、即ち俗に「好
太王」、あるいは「永楽太王」と言われる王で、西暦三百九十一年〜四百十三
年、高句麗の最盛期の基礎を成し遂げた王である。

なお、「好太王」という美称の王が、高句麗には四人存在したということか
ら、刻文の中心人物については「広開土王」と見るべきであろう。

この王の陵墓と目されるものに二つあり、その一つは「太王陵」、又、その
一つが「将軍塚」である。この二つの陵墓をめぐって、旧来、学者間に意見が
二つに分かれた。

ここで、在野の研究家として付言させてもらうなら、小生は西谷教授説を以
て「諾」としたい。何故ならば、かつて「好太王陵」からは「磚(せん)」が
出土しており、「願太王陵安如山固如岳」の文字が認められているので、「太
王陵」が広開土王の陵墓たること、紛れもないと言えよう。

また、その陵墓の大きさについても、「太王陵」の方が「将軍塚」より壮大
で、吉林省文物考古研究所の方起東(ほう きとう)先生も「太王陵」が「広
開土王」の墓に相違なしと発表している。すなわち、西谷教授の見解は妥当な
りと受けとめたい。

ところで、ここに一つ不審に思われることがあるので、概略を述べておきた
い。我が国の史学者は、どういうわけか他国の歴史に関するものであるとわざ
わざ出向して行き、メッタ・ヤタラ陵墓を掘り返し、何が出土したの発見され
たのなどと、他国の歴史的存在や文化程度の一端が解明されたと発表している
が、こと自分たち日本列島の具体的な歴史解明については、一向になされず放
置したままで平然としている。

このことは、学者のみならず、一般の研究家と称される人たちも全く同じ姿
勢なのは、一体、何故なのであろうか。日本の古代史を語る上で、常に持ち出
されるのが、その信憑性が全く定かではない「魏志」を始めとする『倭人伝』
一辺倒の解釈である。

『倭人伝』を引っぱり出して云々することは各人の自由であるが、それなら
ば「邪馬台」やその国の女王であったという「卑弥呼」の墓と推定されている
「箸墓古墳」を始め、幾多の陵墓が現存しているのであるから、何故それらの
墓を調査しないのであろうか?

それは、現在の皇室に関わる存在であるから、という懸念からだとするなら
ば、そのような考え方は一掃されるべきである。

今日現在、天皇の陵墓として見なされている存在は、100%の確率で考古
学上の物証は皆無である。江戸の寛永年中、蒲生君平によって編纂された『山
陵誌』が語っているに過ぎないからである。

事のついでに、もう一つの不審なことを述べたい。現在に至るまで、当たり
前のこと、すなわち、定説・定見とされ、アカデミストによって語られている
古代北東アジア史のあるページは、全く以て「出鱈目」以外の何ものでもない
「大嘘」だということだ。

では、その「出鱈目・大嘘」史観・史説の基礎は一体誰から始まったのかと
いうと、我々が言う今日のアカデミスト達ではない。彼らは知らぬままに鵜呑
みにして語り継いできたままである。情状酌量の余地は少々アリとも言えよう。

今日一般的とされている古代北東アジア史の塗り替え作業は、我が国に「東
洋史」という分野を確立させた、旧・盛岡藩士族「那珂通世(なか みちよ)
1851−1908」に始まった。彼は幼少に藩校で学び、十九世紀末から二
十世紀初頭、我が国の教育方法・教育制度に大きく貢献した人物で、その著作
に『支那通史』や「元朝秘史」の注釈本『成吉思汗実録』などがあり、また、
我が国の「書記」の紀年問題を究明した『上世年紀考』がある。

那珂通世博士は、二十世紀初頭に朝鮮や旧・満州方面の実地踏査行をなし、
その方面の史学独占の端緒をなした人物であり、旧・東京帝大の権威と称され
た津田左右吉や白鳥庫吉・鳥居龍蔵の各氏は、すべて那珂博士の弟子達である。

中国の民国時代に成立した『奉天通志』の中で、中国側の学者が那珂通世に
ついて誹謗している。

それは何についてかというと、いわゆる古の「真番国」で、後年、漢帝が征
服し降格して「真番郡」となした所在についてである。

中国側の調査では、この郡の治所と見なされる所が、「霅(こう)県」であ
る。この県が「興京」=清朝初期の都城で、今日の遼寧省新浜満族自治県、
渾河の支流・蘇子河上源に在り、当初、長白山以西が「真番郡」であったが、
清朝期にはその境域は、既に奉天省境内の管轄下に入っていたという。

だが、その事実を日本の那珂通世は、真番郡の「霅(こう)県」が鴨緑江上
游であると位置づけ、然して、彼はしきりに中国・朝鮮の古書を改めることを
ほしいままにし、その改竄された歴史を人に強制し、自らの説に就くことが正
当であると主張した。これを中国の学者たちは、許されざる所である…と記録
している。

ちなみに、『奉天通志第五十沿革統部一』を調べて戴きたい。那珂氏の行為
を不当なものとして記録に留めていることが判明するはずである。

それ以来、おおよそ一百年の間、那珂通世に始まった史書改竄は、東京帝大
を始め京都帝大の学者たちによってより強固に構築され、その誤った「皇国史
観的」歴史解釈が今日一般に「定説」となって罷り通っている。これが我が国
北東アジア史学界の現状である。

この事実を指摘し、真実の歴史像はどうであったのか…について、声を大に
して叫ぶものは残念ながら、「壁外の住人」のみの様である。故に「高麗(こ
ま)った、新羅(しら)けた、百済(くだら)ない。」と言う次第である。

故・韓国国立博物館長・韓柄三(はん ぴょんさむ)先生は残念ながらお亡
くなりになられているが、生前、面白いことを語っておられた。

「現・韓国に、百済が存在したという割には、その存在を決定づけるだ
けの遺跡や遺物が少なすぎる。それは、今後の考古学上の進歩を俟つより
他はないでしょう。」

先生の言われる通り、現・韓国には百済国の遺品等は確かに少なすぎる。か
ろうじて未盗掘状態で発見されたという百済第二十五代「武寧王」の陵墓にし
ても、盗掘されていないのならば、何故、二対の石棺中に遺体がなく、身に着
けていたであろう装飾品しかなかったのか…?

百済第二十五代「武寧王」の時代は西暦五〇一年から五二三年で、百済の最
盛期であり、一方、高句麗は第二十一代「文咨明王」か二十二代「安蔵王」の
時代で、百済とは戦闘状態にあり、しかも、その場所は、旧・満州方面なので
ある。今日の朝鮮半島方面ではないという事実は、百済が現在の韓国には存在
しなかったということになる。

故に、武寧王の陵墓と称されるものが現・韓国方面で発見されたこと自体、
可成り怪しいことにもなる。他の王墓はどうしたのであろうか。我が輩「壁外
の住人」が言うように「百済ナイ」からであろう。武寧王の陵墓も後世の人た
ちの造りあげたものではなかったか…。

では、斯く言う「百済」と呼ぶにふさわしい国名の存在が全くなかったかと
いうと、そうではない。「百済」と称される国家は存在した。

十世紀初頭、甄萱(けんけん)なる者が、全羅道全域を征し「後百済」を建
国したが、この「後百済」は、北の江原道より興った王建の「高麗」に西暦九
三六年に統合され、幾ばくもなく滅亡してしまった。

後の「百済」と前の「百済」とを勘違いするとややこしくなる。両者は全く
関連性なき存在である。

事のはずみで言葉が飛んだが、今日教育の場で当然の知識として教えられて
いる古代北東アジア史のあるページは、即ち、百年を経過して造りあげられて
きた「デッチアゲの大嘘」である。事の真実の一端は、斯く言う「壁外の住人」
の著作中にあり。冀くは、諸賢兄一読されん事を!! 

                        壁外の住人  山形明郷
  
Posted by 愛新覚羅ヌルハチ at 2015年10月17日 01:08
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック