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2015年11月01日

屈辱の日から7年 田母神氏更迭





 あの屈辱の日から7年が経った。7年前、田母神俊雄航空幕僚長が力作「日本は侵略国家であったのか」が「真の近現代史観」懸賞論文最優秀藤誠志賞を受賞した輝かしい日が10月31日だった。 

 しかし、自虐史観に毒された事務次官や官房長らの陰謀で無理やり、栄光から更迭という屈辱の日にさせられてしまった。しかも職を奪うだけでは飽き足らず退職金をも掠め取ろうとした。この暴挙にはほとほと呆れ果てた。幸いにも愛国者たちの活躍で退職金を奪われることはなかったが、歴史観を異にするだけで強盗まがいのことを平気でしてくる者達の危険性がいかにすごいかを教えてくれた。

 一般公開されている(これがネット社会のよいところですね)論文を見たのだが、非常に格調高くあまりのすばらしい内容になぜか涙が出てきてしまった。論文の内容は非常に愛国的であり、なおかつ文章も非常に美しく、論文ではなく小説としても稀代の傑作といえる。最優秀が与えられるのが当然だなと思える。

 田母神氏が一番問いかけたかったのは、日本人はもっと誇りを持つべきだということだ。日本の戦後教育はコミンテルンの支配下にあった日教組の手によって徹底的に自虐史観を叩き込まれていた。それに意見をするものはコミンテルンや特定アジアの圧力によって徹底的に弾圧されてきた。
 
 田母神氏の偉大なところは航空幕僚長の地位にありながら、公然と正論を述べたところにある。残念ながら田母神氏本人も弾圧を受けてしまったが、今までの洗脳を解くのに十分な活躍をしたのは間違いない。

 先にも書いたとおり、コミンテルンは現在も活躍している。冷戦の産物と思われるだろうが、冷戦時よりもその力は強大化している。正確に言うとコミンテルンは、特定アジア3カ国と結託することで強大化してきた。河野談話や村山談話もコミンテルンと結託した特定アジアの圧力から生まれたのは語るまでもないだろう。

 日本はコミンテルンによって悪者扱いされてきた。日韓併合も満州事変も大東亜戦争もそうそれだけには飽き足らず、東京裁判を押し付けて、日本だけを悪者にしてきた。正義であることを何よりも大切にする田母神氏はこうした状況に耐え切れなくなった。それが論文の形で結晶化したのである。

 コミンテルンに洗脳された反対派は「これは論文の名を借りた資金援助だ」と根拠不明の罵倒をするが、それが言いがかりなのは当たり前だ。そもそも審査委員長はあの渡部昇一氏である。保守の代表的人物であり、精神的支柱であり、清廉潔白を信条とするまさに日本のあるべき姿を体現した人物である。そのようの偉大な人物が論文の名を借りた資金援助などという偽装行為をするはずがないではないか。

 それにしても日本2大国士の1人で愛国者の代表的存在であった田母神氏が更迭されたことで日本はその国力を大きく落とすこととなってしまった。特定アジアは田母神氏の存在によって日本を攻撃することをためらっていたのだが、更迭を好機に着々と侵略の準備を進めている。

 だが田母神氏が国民い立ち上がるよう呼びかければ怖いものはない。そんな今だからこそ、国民は田母神氏を元の職に戻すよう動かなければならない。もし田母神氏がダメならば田母神氏も認める愛国者をつけないといけない。
ラベル:田母神俊雄
posted by 愛国 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
さすが愛国先生ですね。コミンテルンの陰謀を見事に説明をしました。しかし、コミンテルンやら特定アジアやらにいいようにされている民族って、本当に愚かでどうしようもありませんね。
Posted by う at 2015年11月01日 12:50
昭和四十七年に「高松塚古墳」の極彩色壁画が発見されている。この高松塚の極彩色壁画は、北韓の平壌周辺に散見される古墳群中の壁画と似ていることから、我が国でも朝・韓の歴史学界の見解に倣って「高句麗」の壁画であると断定している。高松塚や平壌周辺の古墳群に価値があり、且つ、それらが正真正銘な高句麗文化の遺産であるのなら、誰も何ら異議を差し挟む余地はない。ところが、これが大間違いなのである。二、壁外の住人は、今日に根付き定着している「古代北東アジア史」の或るページが、国家権力を発動し、朝・韓現地の学者たちを恫喝しゴリ押しして創り上げた一大「虚構」である。高松塚古墳と現・北韓の古墳群との間に
共通の類似する文化があるとするならば、それは「百済文化」なのである。仏像にしても例外はあるが、日本の仏教美術の粋と言われるものは、一般に「百済仏」が原形であると言われている。飛鳥寺に「飛鳥大仏」を造立する際に、高句麗から我が国の推古天皇に大枚の黄金が送られたという史実を否定はしない。しかし
『書記』の記述そのものを鵜呑みにしてかかることは如何と思う。『書記』の原形もこれ又、『百済本紀』が元になっているという事実から勘案すると、上記の史実とされている事を頭から信用してかかることは、危険でさえある。『書記』には当然のことながら、百済建国から滅亡に至るまでの残像が投影されている筈であるが故なり。以下、現在の北韓の古墳群全てを、高句麗の文化財であると見なすことは百%不可能である。三、 古代東アジア、就中、北東アジア史に関する文献は、残念ながら、十世紀以前に遡ると今の朝鮮には見出されない。従って、いきおい支那大陸ということになる。中国には幾多の異邦異民族に関する文献史料が残されており、それらの中に、言う所の高句麗や百済・新羅に関する伝承が数多く存在する。それらの伝承・伝記と雖も、清朝期下の碩学・曽詳氏の言によれば、その多くは想像の域を出づるものではなく、又、政治的要因と絡み合て抹消されたものも多きに至ると言う。その発言から勘案すれば、頭から鵜呑みにして取り組むことは危険が生じてくる。しかし、だからといって完全に無視することもできない。そのような文献であっても、他に比すべき文献が存在しない以上、一応は懸念しながらも参考とすべきは参考とし、その中から幾ばくかの真実味を嗅ぎ出しさえすれば、後は考古学上の発掘発見物を、どのように位置付け、どのように語り出すかにかかっていよう。 高松塚古墳と北鮮の古墳群に類似性ありと見るならば、文献史学上の推定は「百済文化」と位置付けることができる。その理由は、高句麗も百済も、共に「狛族」すなわち「貊(わいはく)」の「貊」でありこれら は共に「コマ族」と言い、この「コマ」族たちが内紛を起こし、西に奔ったものが、いわゆる「百残」あるいは「伯済」と言い、後に至って「百済」と名乗ることとなるのである。 百人の残党を従えて「韓」の地に入った百済に「馬韓王」の思いやりで、その東界の地百里を割いて与えたという。「コマ族」が内紛を起こし、西に奔り最初に拠った所が、今日の「遼寧省」西部の「大凌河」流域下游一帯の地である。時代が降って北の「鮮卑族」が南下し、又、その背後には「曹魏」が台頭し、かててくわえて同族である「高句麗」が遼東方面に侵攻を開始し、合わせて西、遼西方面を睥睨し始めた。ここに於いて「百済」は東遷のやむなきに至り海路遼東湾(古の楽浪海)を越えて南の方「韓」の地に入ることになる。ここで「韓」の地というと、今日では即座に今の「韓国」方面と受けとめがちであるが、おっとどっこい、そうはならない。「韓」、即ち、古の「辰国」とは、今の遼寧省「海城市」以南一帯の広大な区域を指す。前論でも述べた如くそこは、「楽浪朝鮮」の南界である。現在においても、「古朝鮮」に関する遺趾や遺品は数多く発見されているが、中・朝・韓・日の学者たちは、歴史のページにどのように位置付けて語れば良いのか全く分からぬままである。四、このように歴史を分からなくしてしまったのは、嘗ての日本の「御用学者」や「軍部」である。一つの例証として、嘗て遼寧省「熊(ゆう)岳城」近辺に在った「百済」の始祖「尉仇台(いきゅうたい)」の碑を、日本軍は現・韓国方面に持ち去った…という事実がある。「百済」の始祖を「尉仇台」と言ったが、かなり怪しいと言う御仁も居られよう。いわゆる『三国史記』中に拠ると、その始祖は「解温祚(かいおんそ)」となっている筈と。しかし、中国二十五史中の「百済伝」を見る限り、「百済」の始祖を「解温祚(かいおんそ)」などとは一言も出てこないのである。これは至極当然のことなのである。『三国史記』が編纂されたのは、遙か後世の「高麗」の時代に入ってからであり、その段階で「高句麗」と種を同じくする故に、その始祖を遡って「東夫余王」の姓、すなわち「解」を採って詐称したものであろう。『新唐書』中においては、【夫余の尉仇台、遼東太守・公孫淵の娘をめとり、百済の始祖となり、強大になった】旨の記述がある。又、他の文献中においても「尉仇台」の名は出てくるが、「温祚」の温の字も見当たらない。同時代成立の文献を優先させるということに重きを置けば、中国側の記述が正当性を帯びて来よう。「尉仇台」は公孫氏の勢力圏内の「故帯方の
地」に拠ったのである。「帯方郡」とは、「楽浪郡南部都尉治」を切り放し、西暦二百八年(二百七年とするものもあり、しかる時は、公孫度に当たる)頃、遼東の覇者「公孫康」(或いはその父の「度」の時代とも言われる)が、設置した私設の「郡県」であり、漢帝国の直轄地ではない。「楽浪郡」そのものが、今日の韓半島方面に設けられたものではない故に、その南部と言えば、そこは当然のことながら、今日の「海城市」以南の遼東半島方面になる。ちなみに、中国歴史地図中を調べてゆくと、この「帯方郡」最後の時期は、奇しくも「百済」強勢期に入る「後燕」の世祖「成武帝」の建興十年、西暦三百九十五年であり、その治所は「熊岳」である。何故にこの時代が、「帯方郡」最後の時期となったのか、これも簡単、「帯方郡」は「百済」の併合する所となり終焉を告げることになる。又、その治所が「熊岳城」に置かれたということは何を意味するのか。此処がいわゆる「百済」の都した「熊津城」だったのである。今日現在語られている如く、韓国の
「忠清北道」や北朝鮮の「黄海道」方面に存在したものではない。「梁」の武帝の天監元年すなわち五百二年、「百済」は東遷している。その原因は先に述べた軍事情勢による。この五百二年は又、対外的に国号を「斯廬(しろ」から「新羅(しら)」へと改称した年でもあった。
更に、追って「百済」の所在地について言うならば、『史記正義括地志』に、「百済の西南・渤海中…」云々なる語が見られ、又、「拠って遼西・晋平二郡を置き、自らも百済郡を置く」と記録されており、更に、『通典(つてん)』中を見ると、「百済、又、拠って遼西・晋平二郡を置く、今の柳城・北平の間なり」とある。『魏書巻百』中に拠ると、「百済」第二十一代「蓋鹵(がいろ)王・夫余慶(ふよ けい)は西暦四百七十一年、すなわち東遷前になるが「北魏」第六代高祖「孝文帝」の延興二年に既に「北魏」の領有する所となった「遼西」方面の返還を要請している事実がある。五世紀も後半に至って、「百済」と言われた国が、自らの西方界域の返還を願っているということは、この国が何処に存在したものかを雄弁に物語っていよう。前に、「百済」は遼西・晋平二郡を置く…と書いたが、その所在地は『通典』中に言う如く、「柳城(古の龍城)と北平の間を言う」と。この北平とは古の漢帝国時代の北平郡を言う。これは後「清朝」期に入り、「永平府廬龍(ルーロン)県」となった今日の河北北部の、「廬龍県」である。 五、今日、一般に我が国の学者も、この「百済」の郡県については黙しているが、何故か。それは、偽造された史説では辻褄が合わなくなるからである。この五世紀初頭から末に至るまで、「百済」の強勢期であり、「高句麗」は百数十もの城塞を片っ端から攻略され、その都である「平壌城」すら奪われている。これでも未だ、「百済」が現・韓国方面と言い張る御仁が居るのならば、その御仁も又、古い時代の「皇国史観」を鵜呑みにして「北東アジア史」を眺めている「骨董博物館」行きが最もふさわしいアナクロ人間であると確信する。日本のある「仏師」の曰く、【我が国の仏教美術の真髄とも言える端正且つ尊厳性に充ちた諸仏像は、まさしく「百済仏」の影響と言えよう。しかし、その源流であるとされる筈の「韓国仏」とは極めて似て非なる物である…と。たまたま、満州方面の「遼河」流域辺から発掘されたという「満州仏」を見させてもらったが、その時、愕然とした…】と。それは、当たり前のことである。何度も言ってきたように、「百済」の国とは、今の韓国方面ではなく、「南満」一帯から北朝鮮の「大同江」流域にかけて存在したが故に、である。そのように解釈するならば、「百済」が「倭」と結託し、「高句麗」に当たったという史実も、すなわち今の「韓国」方面に「倭」と称された国が存在していたが故に、両者は簡単に結びつくことが可能だったのであろうと納得できるのである。然して、その時の返礼として「百済王」から「倭王」に下賜(かし)された物が、かの有名な「七支刀(ななつさやのたち)」であったと言える。この時点では「百済王」の方がランクが上であり、「倭」はポリス的な存在の集合に過ぎない。後世、「新羅」が発展し南下を開始した六世紀後に、「倭」は日本列島内に移住を開始し、「百済」が西暦六六五年に滅亡するに至り、その豪族たちも又、日本列島に入植するに至る。ちなみに、我が国の戦国武将たちの多くが、大内氏や、古くは坂上田村麿に至るまで、殆どが「百済」系豪族の末裔である。なお、甲斐源氏は、新羅三郎義光の裔(すえ)と、「新羅」出身であることを名乗ったのである。六、拙者・六無斎は、以前、故・松本清張先生に毒舌を吐いたことがある。すなわち、作家として優秀なることは認めるに吝かではないが、芸術家や作家の方々が歴史を語ると、トンデモナイ方向へと飛躍してしまいます!と、申し上げたら、『謎の源流』以外、歴史的なものには首を突っ込まなくなった。NHKの3チャンネルで、同じく故人となられた東京大学名誉教授・江上波夫先生と松本清張氏との対談が放映された折、松本清張氏から江上先生への質問として出た言葉が、【先生、「衛瞞朝鮮」とは、今の韓半島北西部方面ではなく、現在の中国東北部の「遼河」流域一帯に存在したという発言を受けましたが、その実態は如何なものでしょうか…】であった。その時、江上先生は言葉を濁し、【いや、まあ、その様な見方もあるようですね!】で終わったと記憶している。この松本清張氏の質問に、江上先生が言葉を濁した理由は、我・六無斎には聞かずとも分かっている次第。江上氏は、白鳥庫吉や鳥居龍蔵の弟子であり、旧・帝国大学時代に師に従って韓半島入りし、師匠たちの改竄行為を手伝わされた一人であったからである。更なる救いがたい御仁が居る。名を敢えて挙げよう。黒岩重吾氏である。彼は既に虚構改竄史の虜となり、それを前提としてやたらに「卑弥呼」についての推理本を出していたが、氏にも六無斎は史料を差し上げているのに、馬の耳に何とやら、般若・浄土はた又、華厳経を唱えてみても残念ながら分からず仕舞いでお亡くなりになられた。七、高松塚や北韓の古墳群の殆どが、「高句麗」ではなく、「百済」文化であると理解されるのは、百年後のことと相成るのか、余り期待はかけられないと予想している。官にいるアカデミストに於いてをや、野に居て名声を上げるために敢えて埋め戻し作業を秘かに行った御仁もつい最近に存在している。しかし、戦前、国家権力のもとになされた大規模な「犯罪行為」を検証し糾弾しなければ、歴史を正しく語ることは全く不可能である。最後に一言付け加えて筆を措くこととしたい。「卑弥呼」とは、今日の日本人ではなく、多分に現・韓国方面に雑居していたポリスの「女酋」を指している。卑弥呼を「ヒミコ」と読むのは日本人だけであり、漢人は「ピミフ」と発音する。どう考えても、日本人ではあり得ないと確信する。
 


 
Posted by 愛新覚羅溥儀 at 2015年11月03日 18:24
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