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2015年11月11日

ミャンマーは日本にとって危険な国になるかもしれない





 ミャンマーで選挙が行われ、アウン・サン・スー・チーが党首の野党が勝利を確実にさせた。スー・チー本人は大統領になることはできないが、党首としてミャンマーをお語化していくのは確実だろう。そうなると日本にとっては危険なことになりかねない。なぜならばスー・チーは反日だからだ。

ミャンマーの民主化運動を指導し、ノーベル賞を受賞したこともあるアウン・サン・スー・チーだがこの女は極悪人である。かつて訪問した韓国(そもそもなぜこのようなところに行くか?)で日本に対して歴史問題を批判したからだ。

 スー・チーは「過ちは誰でもあるが、過ちを認めることをためらうことこそが本当の過ちだ」と述べた。だがこの女は何も理解していない。日本はそもそも過ちを何も犯していないということを。歴史問題は韓国の捏造であるし、従軍慰安婦は勝手に戦場について行った売春婦だし、南京事件も日本人が殺したという証拠はない。つまり過ちとは妄想以外の何物でもないのだ。

 日本は神武天皇以来2700年の正確な歴史を誇る偉大な国、どこかの根拠のない半万年の歴史が〜という捏造国家とは違うのだ。それ以前に韓国に来て発言をすること自体がありえない。自分が利用されていることをわかっているのだろうか?

 このスー・チーは節操のない女である。父アウン・サン将軍はミャンマー独立の英雄として知られており祀られているが、その廟を爆破したのは他でもない北朝鮮である。亡き父親が見れば犯という破廉恥なことをしているのかと嘆き悲しむであろう。

 日本とミャンマーの友好を汚す罪は重い。もしも再び反日思想を表に出すのならば日本は迷わず、ミャンマー政府を転覆させる計画を立てる出来だろう。具体的には現与党や軍部を応援してクーデターを仕向けることだ。ノーベル賞をとったから勘違いをしているわけではないのだろうが、日本にとって危険な目は早めに摘む必要がある。
ラベル:ミャンマー
posted by 愛国 at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント

「好太王碑・建立年」に関する疑問

吉林省集安市・鴨緑江を南面に臨んで建立されている周知の「好太王碑」について、以下の疑問を呈する。この碑は、高句麗が勢力を盛り返した4世紀後半、すなわち西暦390年頃
第19代廣開土王の戦勝記念の功績を称え、西暦414年に建立されたものであるという事が一般に定着している。しかし、この建立年代と碑文中の文言に些かの疑問が生じる。その疑問とは、西歴414年という建立時期が正しい年時であるとすると、碑文中の次の一文が矛盾し、理解し難くなってくることに起因する。
「…百残新羅舊是属民由來朝貢而倭以辛
卯年來渡海破百残□□新羅…」
百残(ひゃくざん)・新羅(しんら)は旧
(もと)これ属民(ぞくみん)、由来(ゆらい)朝貢(ちょうこう)。倭、辛卯(しんぼう)の年(とし)を以(もっ)て来(き)たり。海(うみ)を渡(わた)り百残(ひゃくざん)□□新羅(しんら)を破(やぶ)る。…
上記の一文中、「百残」と「新羅」の名称ある故に、少しくいぶかしくなる。好太王の碑が建立されたという四百年代、「百残」は既に死語となり、支那側の文献にも一つの国家として『百済傅』として伝えられている。「新羅」という国号は、この建立の世紀には未だ現れて来ていない。「新羅」という国号が、対外的にも認められ、『新羅傅』として記載される様
になるのは6世紀頃からであり、四百年代成立の文献記録中には「斯羅」、或いは、「斯盧」であり、それも旧弁辰の一属邦的存在として出てくるのみである。即ち「好太王碑」の碑文中には、かなりの昔に消滅した国名と、遙か後
世に至って現れてくる国名が、混然と刻されている。ということは、建立年代が414年ではなく、新旧こもごも交え聞いた人が、6世紀以降に入ってから建てたものではなかったか?既に存在しない国名と、未だ現れていない国名が並記されていることが謎とする所以である。如何なるや。この「好太王碑」そのものが、確かに今日に現存する立派な文化遺産であるこ
とを否定するものではないが、建てられたという年代と碑文の内容に、些かの疑問が出てくることを指摘した学者は、残念ながら、未だ一人もいないようである。これも不思議な話であろう。さらにもう一つの疑問。碑が建てられたという世紀、すなわち、四百年代初頭の「高句麗」は、丸都山城時代であり、鴨緑江流域から北韓の大同江流域周辺は、未だ「百済」の占拠する所となっていたはずである。碑の建てられた地区を奪還し、「平壤城」に遷都するのは次の第20代長寿王・lの時代に入ってからであ
る。すなわち、西暦427年に至ってからである。ここに一つの問題を提起しておきたい。『三国史記』では、「高句麗」を除くとし
「百済・新羅」などが西暦前成立した事になっている。しかし、これはあまり信用できるものではない。この事を裏付けるべき支那側の文献には一切記載されていないのである。   
          追記
「遼朝」および「金朝」以後、古の「高句麗」の国都に関しては、歴史のページから記述が絶え、その遺蹟などについても人々から忘却され、「空山鵑(けん)叫び、風江星冷やかなり」と形容される状態になったと言われる。
蔓草(つるくさ)生い繁る荒都中に巨墳が苔むして存立していたが、それが何なのかと知る人は存在しなくなった。例えば1444年成立の文献『龍飛御天歌(たっぴぎょてんか)』中にても、その存在が明らかにされていず、又、1536年頃の朝鮮驚辺使・沈 彦光が、満浦から集安辺を眺望して「完顔(わんやく)の故国・荒城あり、皇帝の遺墳巨碣(けつ)存す」と述べるに止まり、さらに又、1872年成立の『江界志』中においても、その石碑が何たるかが全く理解されていなかった。さらに又、現北朝鮮の科学院々士・林 時亨博士も「その陵の真相は全く分からない」という程度の認識しかなかったという。この巨碣が「好太王碑」であるということが明らかになったのは、西暦1882年・明治15年であったにもかかわらず、当時、朝鮮はこの程度の知識しか持ち合わせていなかったということに驚かされる。
「好太王碑」であると判明する以前は、「後金」の皇帝陵墓くらいに見なされていたらしく、この碑文中に出てくる「高句麗」と戰ったという「倭軍」・「倭」を、当時の朝鮮の学者達は、大体において今の南韓方面の在地勢力と解釈していたと言われる。しかし、「日・韓併合」と期を同じくし、その解釈は全く無視された。日本のご用学者達が、「倭」とは古の「日本帝国」、すなわち「倭=古代日本」である
という改竄解釈をごり押し通した。その結果、それが今日現在「定説」として浸透し、そのため、碑文中の意味と史実が全く噛み合わなくなってしまったという。つまり、問題は、玄界灘の険を冒して幾たびも鴨緑江一帯まで「倭」即「日本」が進入し得たか否かという大なる疑問である。その解釈弁明は、世の達識に委ね、
ここでは問題を提起するに留め置くこととする。


Posted by 愛新覚羅溥儀 at 2015年11月11日 18:18
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